坂田和人の経歴

坂田和人は、東京都江東区出身で、苦労人と評されるロードレーサーである。
というのも、1994年に世界チャンピオンになりながら、とある雑誌のインタビューで、オフはアルバイトをすると答えたのが、当時の苦労を物語る逸話ではなかろうか。
彼は1994年から、チームアプリリアに在籍していた。

結果的にその年のWGP・GP125CCクラスで、年間王者になったのだが、アプリリアからのサポートは、とても良いとは言えない環境だったからだ。
そのレースで彼は、劣化した部品を組み込んで予選に臨み、壊れてしまった部品を調達に、ほかのチームに頭を下げに行ったのだ。
このような環境下で、2度の世界チャンピオンになるなど、結果を残したことは、彼の非凡な素質が突出していた証拠ではなかろうか。

坂田和人の主な戦歴

・1988年 – ロードレース筑波選手権ノービスチャンピオン
・1989年 – 全日本ロードレース選手権ジュニアチャンピオン
・1990年 – 全日本ロードレース選手権国際A級125チャンピオン
・1991年 – WGP・GP125ランキング13位/ホンダ(PP1回)
・1992年 – WGP・GP125ランキング11位/ホンダ(PP3回)
・1993年 – WGP・GP125ランキング2位/ホンダ(2勝・PP6回)
・1994年 – WGP・GP125年間王者/アプリリア(3勝・PP7回)
・1995年 – WGP・GP125ランキング2位/アプリリア(2勝・PP5回)
・1996年 – WGP・GP125ランキング8位/アプリリア(PP1回)
・1997年 – WGP・GP125ランキング4位/アプリリア(PP2回)
・1998年 – WGP・GP125年間王者/アプリリア(4勝・PP4回)
・1999年 – WGP・GP125ランキング14位/ホンダ

主なエピソード

少し、面白いエピソードに、彼の名前に関連したものがある。
カズトという名前だが、イタリア語の発音で、転倒を意味する言葉に近いそうだ。
彼の名前を知るサーキットDr.は、思わず転倒しないように験を担いで、登録名を変えれば ? と提言していたほどである。

また、WGP初優勝となったレースであるが、この時同じライダー仲間の親友、若井が予選中の事故で死去してしまったのだ。
彼はあまりのショックで、決勝の辞退を決意するが、説得され若井のために走ると踏ん切りを決めた。
結果、初優勝とはなったが、ひたすら号泣し続ける様子が、TVに映し出され、思わずもらい泣きした方も多かったのではなかろうか。

坂田和人の魅力

坂田和人のあまりにも有名なエピソードは、冒頭で説明したように相当な苦労人である。
しかし、その戦歴は確かなもので、年間王者2回、世界選手権優勝11回はさすがともいえよう。
トータルでは、表彰台に上った数は、歴代3位となる41回、 ポールポジションは29回で歴代2位というのだから、もっと評価を上げてもよいとのではないかとさえ思うのは当然だろう。

そんな彼が、13年ぶりに 51歳で、全日本ロードレースに復帰したのは、復活劇としては非常に衝撃的であった。
ファンはもちろんのこと、多くのライダーがこの出来事に驚き、いまだ現役であることを見せつけたのだ。

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