高橋国光の経歴
59歳まで現役を続行、バイクのみならず、カーレース合わせて489ものレースに参戦した、まさに日本のレジェンドが国さんこと高橋国光だ。その輝かしい戦績は、2002年 日本自動車殿堂(JAHFA)入り、2013年にはル・マン24時間・ホール・オブ・フェイム 受賞。そして、2020年にはその功労が認められ、文部科学省の「スポーツ功労者顕彰」の受章を受けた。1999年に59歳で現役を引退すると、高橋国光は自らのレーシングチーム、国光チームを率い、2000年以降は監督として優勝も経験している。まさに、モータースポーツの落とし子とも呼べる存在が彼だ。
高橋国光の主な戦歴
『F1』
1977年 31位(ティレル/メイリツ・レーシング)
『全日本F2選手権/全日本F3000選手権』
・1983年総合6位(ノバ・エンジニアリング)
・1984年総合13位(ADVAN SPORTS NOVA)1985年総合13位
・1986年総合10位
・1987年総合9位
・1988年総合7位
・1989年総合15位
・1990年総合9位
・1994年総合10位
『全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権』
・1984年総合9位(アドバンスポーツノバ)
・1985年総合優勝
・1986年総合優勝(アドバンアルファノバ)
・1987年総合優勝
・1988年総合4位
・1989年総合優勝
・1990年総合22位
・1991年相互27位(チーム・タイサン・クリッパー)
『ル・マン24時間レース』
・1995年総合優勝(チーム国光)
・1996年総合3位
主なエピソード
高橋国光のエピソードとして、よく知られているのが、優勝目前としてトップに立っていた際のレース事故の話しを挙げておかなければならない。
それは1977年、鈴鹿サーキットで開催された、全日本F2000選手権の開幕戦のことだった。
突然のことであったが、その時高橋がトップで、残り2周の段階に差し掛かった際の出来事だ。
周回遅れしそうだった車が大クラッシュし、ガードレールに突き刺さってしまい、そのまま動けなくなってしまったのだ。
高橋は、自身がトップであったにもかかわらず、車を急停車させると彼の救出に向かった。
後続のマシンも、彼の姿を見、マシンを停止させたのだった。
美談としては、まさに映画のような出来事であったが、彼の人となりを語るうえでも欠かせないエピソードである。
高橋国光の魅力
モータージャーナリストの熊倉重春は、日本のレーサーで職人といえば中子修、天才といえば高橋国光と彼の実力をこう評価しているのだ。
しかし、意外な事実として、1970年代後半までは長らく「無冠の帝王」と呼ばれていた時代もあったのだ。
二輪ライダーの時代は、1958年に行われた第1回全日本クラブマンレース・ジュニアで華々しく優勝。
第2回全日本クラブマンレースのセニアクラスでの優勝や、第3回全日本オートバイ耐久ロードレースでも2位を獲得と、10代で瞬く間に日本を代表するライダーとして君臨したのだ。
その後も、日本人として初めて、世界GPレース優勝を飾ったが、1962年マン島TTレースでライダー人生は一変してしまうのだ。
このレースで彼は重大な事故を負い、その後のライダー人生を転換せざるをえなくなった。