上田昇の経歴

世界の壁を打ち破り、ロードレース世界選手権で活躍した上田昇はは、パイオニア的存在であることで知られる人物である
。デビュー当時から、衝撃的なイメージが強かったライダーの一人だ。デビュー戦は、1991年に鈴鹿で開催されたロードレース世界選手権開幕戦、日本GPであった。

彼は初戦にもかかわらず、ワイルドカードをもぎ取ると、いきなりポール・トゥ・ウィンを果たしたものだから、業界関係者はある意味、相当なショックであっただろうことは想像に難くない。
一般的なスポーツでも、世界大会でいきなり新人が優勝することはありえないことで、命を賭けたロードレースの世界ではなおさらである。

上田昇の戦歴

『ロードレース世界選手権 戦績』
1991年 125cc 総合5位(TSR ホンダ)
1992年 125cc 総合9位(マールボロ・チーム・ピレリ ホンダ)
1993年 125cc 総合5位
1994年 125cc 総合2位(Giviレーシング ホンダ)
1995年 125cc 総合12位
1996年 125cc 総合7位(ドクショップ・レーシング ホンダ)
1997年 125cc 総合2位(チーム・ピレリ ホンダ)
1998年 125cc 総合13位(GiviホンダLCR ホンダ)
1999年 125cc 総合5位
2000年 125cc 総合5位
2001年 125cc 総合9位(FCC-TSR TSR-ホンダ)
2002年 125cc 総合23位(センプルッチ・アンガイア・レーシング ホンダ)

主なエピソード

2002年シーズン、上田はセンプルッチ・チームに移籍するのだが、第5戦イタリアGPの予選でレース中の事故により、骨盤と首を骨折する重傷を負う。
腰と首といえば、人にとって日常生活を送る上でも致命傷である。
しかし、彼は不屈の闘志で第11戦ポルトガルGPから復帰を果たすが最終戦の後、35歳の上田は現役引退を発表をすることになったのだ。

しかし彼の足跡は、通算160戦出場・1412ポイント獲得数は、共に125ccクラス史上最多記録である。
引退後上田は、後進の育成ために自ら「TEAM NOBBY」の代表を務め、何人ものライダーを育て挙げたのだ。このように、彼の献身的なスタイルは、後進の若手に引き継がれる事となる。

上田昇の魅力

上田昇ほど、バイクを愛した人物はいないのではなかろうか。
引退後は、MotoGPのテレビ中継解説者を経て、様々なオートバイ関連のコメンテーターとして活躍し、意欲的にロードレースの世界に固執している感がある。
それもこれも、日本の二輪業界のためだと知れば、まさに献身的だと用しか他ないだろう。

自らチームを率い、若手を育てた実績は、彼の積極的な行動力の証しでもある。
海外参戦を目指するライダーのため、相談役として多くのライダーの支えとなったのも、バイクを愛するが故の行動であることは、間違いのない事実であろう。
現在も意欲的な活動は続き、日本のロードバイクの世界では欠かせない人物である。

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