武石伸也の経歴・戦歴について

武石伸也は、鈴鹿8耐において日本人で初めてのポールポジションを取ったトップレーサーだ。
1970年生まれの北海道札幌市出身で、主にホンダのチームで活躍してきた。
その名が知られるようになったのは、1991年のことだ。
鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦してから、10年にわたってこのレースの常連として参戦し、常に好成績を残してきた。

一時レースから離れた時期があったが、6年後の2008年に鈴鹿8耐にて復帰している。
その後も、10年間注目を浴び続けるプロレーサーとして活躍を続けた。

特に武石伸也の名が知れ渡ったのは、1992年の鈴鹿8耐だ。
この時代の鈴鹿8耐は世界の中でも特に若手のレーサーが集まり、次世代を担うトップレーサーが見られる場として人気を集めていた。
それだけに、いかにして予選でのタイムアタックで好成績を残せるかが重要だったのだ。

この時代は、フレディー・スペンサーが圧倒的な力を見せつけていた。
世界GPの500ccクラスにおいてチャンピオンとしての地位を築き、「ファーストフレディ」という愛称で呼ばれていた。
この時のレースでは、2分14秒057の成績で予選を終えている。
しかし、それより前に武石伸也は、すでに2分13秒842のタイムを出していたのだ。

次の予選第2日においても激しい戦いが繰り広げられ、さらにタイムが縮められていった。
その中、武石伸也はさらに2分12秒870のタイムをたたき出し、ついに日本人初のポールポジションを取ったのである。
この時、武石伸也はブルーフォックスのライダーとして参戦している。

その後も、1994年、1997年にも3位以内に入賞を果たした。
1992年と1995年には予選で連続して2位を獲得している。
こうして鈴鹿8耐において、華々しい成績を残してきた歴史を持ち、日本のレース界の発展に大きな貢献をしてきたのだ。

武石伸也にまつわるエピソード

武石伸也は、まだまだプロレーサーとしての実力を発揮し続けていた2002年に、契約レーサーとしての働きを終えることになった。
その年の鈴鹿8耐が終わってから、チーム契約を終了しサーキットにおけるレース参戦をしなくなってしまった。
そこには、その後の人生において何かを残さないといけないという不安や、常に危険と隣り合わせのレースにおけるリスクが関係していた。

しかし、地元である北海道で行われていたサーキット走行に参加することで、改めてレースの楽しさを実感する。
昔から交流が深かったトリックスターレーシングの代表に会い、再び鈴鹿8耐に出ることを話し合った。
ついに2008年にプロレーサーとして、鈴鹿サーキットの場に出ることになったのである。

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