ナンバープレート

伊藤史朗(いとう ふみお)彼の名前は、業界ではいわずと知れた存在であろう。1939年(昭和14年)、10月10日に東京都大田区で産声を挙げた。彼は、輝かしいバイクの実績を残し、今もなお現役ライダーに強烈を与えている。

今回は、伊藤史朗に関する生涯をまとめてみた。

伊藤史郎のライダー実績

伊藤史郎がそのライダーとしてその力を発揮したのは、1955年(昭和30年)に開催された第1回浅間高原レースがはじまりである。彼は、まだ16歳という若さで第1回浅間高原レースの優勝者となった。そこから、彼に関心を寄せるライダーが一気に増えた。

静岡県浜松でオートレースの「プロ」として活動するようになる。しかし、浅間火山レースの規定より「プロのライダーは引退して6ヵ月以上経過しない」と走れない制限があったため、オートレースのプロを引退した。

1957年(昭和32年)、現在、音楽機器の販売やスポーツバイクを売り出している「ヤマハ発動機」と契約を結び、第2回浅間火山レースの250㏄クラスに出場。スタートから圧倒的なテクニックで、ぶっちぎりで走行していたが、6週目の時点で、マシントラブルにより、リタイアを余儀なくされる。

バイクを動かすうえで重要な役割を果たすともいえる、エンジンオイルの切れたことにより、マシン自体が動けなくなったのである。

その後、1958年(昭和33年)には初の海外レース「カタリナGP」に出場。数多くのレーサーのなかから6位を勝ち取る。まだ20に満たない若さである。

1960年(昭和35年)に、世界GPの500㏄クラスに出場。フランスGPで6位、オランダ、ベルギーGPではトップ10に入りを果たす。1961(昭和38年)から、「ヤマハファクトリーチーム」をリードする存在となり、ヤマハの新開発したマシン「RD41」(125cc)と「RD48」(250cc)でまたしても世界に挑戦する。

そして第3戦フランスGPのリタイア以外はすべて、6位以内をキープ。250㏄クラスで9位という結果を残したのである。

消えた伝説のライダー

日本人として数々の世界レースに出場し、華やかな実績を残した伊藤史郎。1963年(昭和38年)の出場でも、250ccクラスで2位キープ。総合ランク3位として、この頃の伊藤史郎は、「天才ライダー」といわれていた。

1964年(昭和39年)の世界GPマレーシア大会に500㏄に出場。優勝を期待されたものの、レースの途中で転倒。この頃から、伊藤史郎の人生が大きく変わる。

なかなか実績を残せなかった伊藤史郎は、だんだんと精神を追い詰められていった。レースにはとても出られる状態ではなく、1966年に渡米した後、消息を絶ったのである。

周囲からの期待、栄光と挫折、伊藤史郎自身複雑な想いがあったであろう。消えた伝説のライダー伊藤史郎は、今もなお私たちの心にその生涯を刻んでいるのだ。

Close