ライダーというものは、幼いころからマシンが好きだと私は思っている。 ビル・アイビー(Bill Ivy)バイクを含めてメカニックな一面をもっている。
今回は、ビル・アイビーのバイク人生を辿っていみよう。
戦績
ビル・アイビーは1942年(昭和17年)8月にイングランドで生まれた、イギリスのオートバイレーサーである。学校を卒業すると、地元の機械を扱うショップに就職。当時16歳のビル・アイビーは、さまざまなメカ知識を学んでいく傍ら、小規模のレースに出場していたようである。
1959年(昭和34年)、地元で開催されたロードレース「ブランズハッチ」(50ccクラス)をきっかけに、ビル・アイビーは、ロードレーサーの道を歩んでいくことになる。
1962年(昭和37年)、イギリスで開催される世界GP「マン島TTレース」では、50ccクラスで出場したはよいが、スタート前に棄権することとなった。
もともと、身長157㎝、体重50㎏と小柄な体型であったため、重量クラスのバイクを操ることは困難だったようである。(125㏄マシンでも乗りこなすまでに時間を費やしたようだ)
しかし、ビル・アイビーは、身体的なハンディを克服するために350㏄・500㏄マシンに積極的に乗るようになり、マシンをコントロールできるよう努力したのである。
その結果、1965年(昭和40年)に一度は棄権したマン島TTレースに出場。自身初となるグランプリ戦で125㏄クラスで4位、250㏄クラスで3位という好成績を残したのである。この成績は、努力の積み重ねによるものともいえる。
65年のマン島TTレースを契機に、ヤマハファクトリーチーム一員をとなる。そこから、一気に彼の能力が発揮。66年のスペインで開催された「FIMロードレース世界選手権」(125㏄クラス)で初優勝。ランキング2位の結果を残したのである。
1967年(昭和42年)では、全12戦中8勝を記録。125㏄クラスで彼の右にでるものはいなかったのである。
特徴
ビル・アイビーは努力家であり、数多くの成績を残したが、チームメンバーにはあまり恵まれなかったともいえる。
1968年(昭和43年)頃では、すべてのタイトルをヤマハファクトリーチームが手にするようになっており、その成績を維持するためにも、チームメンバーの一人に125㏄クラスを、ビル・アイビーには、250㏄クラスに出場し、優勝を目指す計画を立てられていた。
ところが、メンバーが指示を無視した結果、不本意な結果となってしまったのだ。この結果に腹を立てたビル・アイビーは、ロードレースを引退表明。
チェコにあるオートバイメーカーから誘われて、一度はプロに復帰したもの、その後の成績を残すことはなかったのである。